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川田神社八幡宮

砺波市西宮森にご鎮座になります「川田八幡宮」です。源平合戦般若野の戦いに勝利した木曾義仲公の軍勢5万が、俱利伽羅峠に進軍途中「午飯岡」で昼食をとったあとに戦勝祈願をしたと伝わる「川田神社八幡宮」ご祭神は誉田別命と姉倉比売命。『八幡宮』の社標に「寿永二年五月、木曾義仲が当八幡宮に祈願平維盛の軍を俱利伽羅峠に夜襲し之を撃破せり」と記されています。当神社の東に平田川が流れていたことから川田という地名となったようです。一礼して鳥居をくぐりますと、長~い歴史を物語っているような雰囲気です。僭越ですが、僕の地元にご鎮座になる誉建神社の御祭神と同じ誉田別命ですので、何か不思議と親しみを感じました。(拝礼)


木曾義仲公の午飯岡②

前回の地から800mほど移動したところにあります木曾義仲公の「午飯岡碑記」です。これは1890年5月に建立されたもので、文は砺波市小島出身の漢学者『石崎謙』そして書は跡継ぎの『石崎譲一』。篆額は、旧加賀藩『前田利為』。昼食をとった場所の泉に映った花影がとてもきれいなので、義仲公はここを気に入り「花木の泉」と名付けます。戦の前なのですが、こころの安寧を感じます!これは僕の憶測ですが、義仲公の傍らに巴御前が座しておられたのではないかと思います。この碑記の右に座すには丁度いい石がいくつかあります。この石に木曾義仲公と巴御前が座し、かの泉に映る花影を愛でたのではないかと思いを馳せるのでした。^^


木曾義仲公の午飯岡①

これは「午飯岡」(ひるがおか)富山県砺波市小島の一角にあります。1183年5月11日、般若野の戦いで見事に勝利を収めた木曾義仲公の軍勢5万が、俱利伽羅峠に向かう途中!この地で「午飯」(昼食)をとったと伝えられています。ちょうどお昼頃にここを通りかかり、少し小高い岡を見つけ、昼飯をとるには丁度よい場所だということで、家来たちがそれぞれ近くから石を持ち寄り座る所をつくりました。傍らに清らかな泉が湧いていて、そこに映る花影がとてもきれいなので、義仲はここを気に入り『花木の泉』と名付けました。ここで午飯をしたためて一息入れた義仲は、西宮森の川田八幡宮で戦勝祈願をして、「火牛の計」で有名な俱利伽羅山の合戦にのぞむのです。このことを村(小島)の誇りとして代々語り伝えておられます。次回はこの地から少し移動します!


義経と弁慶

源義経公を扇で打ち、叱責する弁慶!ここは富山県高岡市の伏木駅前に立つ「如意の渡し」の銅像です。駅裏に「如意の渡し」があります。渡守の平権守(たいらのごんのかみ)に義経と見破られそうになった時に弁慶の機転で見破られずに済んだといいます。僕は弁慶の存在は義経の完全主従関係ではなく、若い義経を教育し、そして導く影の存在であると考えています。雨晴海岸に義経公を祀る義経神社がご鎮座になります。


義仲の松と巴の松

埴生護國八幡宮の右に「義仲の松」と「巴の松」があります。手前右に「義仲の松」左奥に「巴の松」となっていて、案内板には、こう記されています。「義仲の松」と「巴の松」-経緯と由来-ここ小矢部市埴生は、寿永二年(一一八三)、木曾義仲率いる源氏軍が平家軍と戦った源平俱利伽羅合戦の地であり、義仲が戦勝を祈願した埴生八幡宮や、義仲と共に戦い、その後数奇な運命をたどり南砺市福光において九一歳で終焉を迎えたとされる巴御前ゆかりの史跡が多く残されている。この度、義仲・巴の顕彰を推進する関係者のご厚意により、義仲公と巴御前ゆかりの松の苗木を譲り受けて植樹し、日本史上傑出した二人の勇姿を偲ぶよすがとするものである。

 

□ 義仲の松 義仲公の菩提寺である長野県木曽町の徳音寺から、その苗を譲り受け育生していた木曽軍源義仲全国友の会(得能康生会長)より小矢部市に寄贈いただいたものである。植樹日平成二五年七月二十日

 

□ 巴の松 南砺市福光の巴塚公園には樹齢八百年と伝わる巴松があり、福光ネイティブ・トラスト(得能康生会長)は巴御前顕彰の一環として巴松の育生に取り組んでいる。この度、その苗を小矢部市に寄贈いただき植樹するものである。植樹日平成二十九年六月三日

 

『日本史上!傑出した二人を偲ぶよすがとするものである』とあります。正に俱利伽羅峠の戦いで、加勢した越中武士団と共に大勝利をおさめた益荒男と、女性でありながら数多くの武勇伝に心酔させられる二人に会いに来てしまうというか、足を運んでしまう僕たちなのでした。木曽軍源義仲全国友の会の会長さまはじめ、関係者のみなさまに感謝致します。柴田佳一 拝、

 


いよっ日本一

 

 「いよっ日本一」そう叫んでしまう源義仲公の銅像です。見上げると一瞬で圧倒される力強さがあります。『褒美など要らぬ、頼朝にくれてやる』侍(サムライ)はシャムラーイ(護る者)とお聞きしたことがあります。上洛を果たし法皇に謁見したときこそ、義仲公も、そして加勢した越中武士団も最大の誉であっただろうと思います。埴生護國八幡宮(富山県小矢部市埴生)の近くに陣を張ったのが1183年5月!今から丁度839年前になります。


葵塚(あおいづか)

葵塚(あおいづか)です。源平合戦俱利伽羅峠の戦いで、砺波山にて葵御前は命を落としました。20代後半であろうと推察します。91歳の生涯を生き抜いた巴御前は、亡くなる前に『葵の近くに埋葬してほしい』と越中福満の石黒氏に依頼し、葵塚の右側やや高き所に巴塚があります。葵塚碑文には「葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す 屍を此の地に埋め墳を築かしむ」これもまた朽ちたのか、削られたのか巴塚と同様になっていました。からだが弱く、とても戦場に立つことは叶わない葵御前!義仲公への篤き思いが、巴御前と並び青い薙刀を振り回し武功を挙げたのだろうと思います。若くして命を落としましたが、義仲公への篤き思いからすれば、葵御前は本望であったろうと僕は思います。「葵さん、また伺いますね」合掌。


巴塚

今日は良い天候にも恵まれ、富山県小矢部市にご鎮座になります埴生護國八幡宮に参拝を済ませてから、巴塚と葵塚へと足を運びました。やはり大河ドラマ『鎌倉殿の13人』への注目度は高く、俱利伽羅合戦の地は、今まで以上の人気でありました。巴塚では、巴御前は91歳の生涯を懸命に生きたという充実感を感じたのですが、左に位置する葵御前の葵塚では、若くして夢半ばで亡くなった故なのか、もの哀しい感じというか、そんな思いが込みあげてきました。僕的には、ふたりの御前の塚の碑文が朽ちていたのか、故意に削られたのか分かりませんが、碑に傷みがあることに少し残念に思いました。「また会いに行きますね!」合掌。


巴御前の生涯

木曾義仲公が巴御前に落ち延びるよう命じているところです。義仲公は、自害する場所を探していた処!馬が湿地に脚をとられ、そこに矢が放たれ絶命したと伝わります。巴御前は義仲公の命を受け落ち延びましたが、鎌倉の頼朝に呼び出され和田義盛の妾となります。『鎌倉殿の13人』のひとりですが『武骨さ』を和田義盛にも感じています。和田合戦の後に源平合戦俱利伽羅峠の戦いで共に戦った石黒氏を頼り、越中國福満(富山県南砺市福光町)に身を寄せ、尼となり木曾義仲公と和田義盛の霊を弔いながら91歳の生涯を終えたと伝えられます。「巴は義仲に従い源平砺波山の戦の部将となる 晩年尼となり越中に来たり九一歳にて死す」(巴塚碑文)木曾義仲公は31歳の生涯であり、巴御前は義仲公の分まで懸命に生き切ったのだと僕は思います。そして青木崇高さん秋元才加さんお疲れさまでした。 


鵯越え

1184年3月、摂津國福原及び須磨で行なわれた源平合戦のひとつ一ノ谷の戦い。平家軍が陣を張るのを見おろす義経です。あり得ないことに、この断崖を駆けおり、平家軍を圧倒します。後白河法皇との謀略もあり武士として、義仲公だったら「義」は何処にあるのか?と激しく詰問されそうな気がしています。断崖を駆けおりたとされていますが、当時の馬は今のようなサラブレッド種ではなく、小さい馬!ロバくらいでしょうか!?埼玉県深谷市にある馬を背負う畠山重忠の銅像は、馬がサラブレッド的な大きさなので、力強さを感じます。しかし大きすぎて駆けおりることは難しいと思います。小さい馬だからこそ鵯越えの逆落としが出来たのだと僕は思います。だけど、凄いですね!!