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天神講(てんじんこう)を考える。

もう幾つ寝るとお正月~♪っていう感じになりました。お正月にはお飾りはもちろんのこと天神様(菅原道真公)をお祀りして

1月25日に天神講となります。北陸富山では、当たり前に行われる祭事として厳かに守っており、日本中で行われている!と思っていました。然し!北陸の越前と越中だけ、ようするに福井県と富山県だけだと知ってボー然!?これは本当にびっくりして!出てきた言葉が「えっ!そうなの?」でした。これは多分なのですが福井と富山の両県のひとはみ~んな、そう言ったと思います。また、1月25日の天神講でお供えするのが福井県では焼きカレイと決まっているそうなのですが、こちら富山県では尾頭付きが定番で鯛や甘鯛、鰤に鰯、はたまた蟹やら烏賊など食べたいものをお供えしています。各家庭によってマチマチなようです。(笑)

 

両県にわたる根強い思い込みは、近年!テレビのクイズ番組によって外されたようである。この件はテレビ番組に感謝せねばならないですね!(礼)一つ思い込みを外せました!ありがとう。(感謝)以下『ウィキぺディア』より引用します。(チョット長いですのでお急ぎの方はスルーしてくださいね)

(引用転載開始)

 

本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、菅原道真が死後、火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどを由来とし、道真の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになった。

 

(歴史)

藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た。(清涼殿落雷事件)これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。

 

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。道真が亡くなった太宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮が建立された。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立された。987年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。平安時代末期から鎌倉時代ごろには、怨霊として恐れられることは少なくなった。この時代に書かれた『天神縁起』によれば、この時代には天神様は慈悲の神、正直の神として信仰されるようになっていた。江戸時代には、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになった。元々の火雷天神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり雨は農作物の生育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地にも火雷天神と同様の伝承とともに天神が祀られていたが

火雷天神が道真と同一視されたことから、各地に祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位である。

 (発祥の地)

北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものでありどちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮と太宰府天満宮では「総本社」「総本宮」という呼称は用いず、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。

 

(各地の天神信仰)

北陸、福井県や富山県では、長男が誕生するとそれ以後の正月、床の間に天神像(木彫や掛け軸)を飾り、福井では1月25日にカレイを供える風習がある。この掛け軸などは、母方の実家から送られる。これは幕末の頃に教育熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、石川県など前田藩の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。前田家は菅原氏の出を称しており、家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、そのためとされる。ちなみに前田家の家紋は「剣梅鉢」と呼ばれている。

 

広島県北部

 子供の初節句に天神像等の人形を贈る。三次人形を参照。

 東京板橋区

 関東最古の天神信仰である。梅木の霊力で疫病が退散し梅木を祭祀し天神信仰が始まった。

 (天神信仰と数字)

菅原道真を主祭神としている神社では、道真の誕生日と命日がともに25日であったことから毎月25日を例祭としていることが多い。

江戸時代でも毎月25日は天神様の縁日であり、とくに旧暦1月25日を「始め天神」、12月25日を「終い天神」とよんで参詣したが、これは新暦に移行した現在でもそう呼ばれている。また江戸市中で道真を祀る25社を「江戸二十五天神」と称した。

 (天神信仰と牛)

菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真も牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。

 (引用転載終了)

 さて、これから一考して自論を展開することにします。あくまでも自論であることをお断りしておきます。藤原時平の陰謀によって、道真は左遷され、破竹の勢いそのままに出世街道を歩んできた道真を地のどん底に突き落とされました。いやがらせもここまでくると怖いもので、まるで犠牲である。疫病や清涼殿落雷事件は、犠牲者である道真の祟りだと権力者や人々が信じた訳は、その時代背景や陰陽道が深く関わっていると思われます。天神講として福井や富山に今でもお祀りし大切にしているのは、それに関係するものが多数移り住んだのか?もしくは怨霊封印の為に陰陽道の定めた方角がこの両県であったのではないかと僕は推察しています。右上の写真の臥牛は、菅原道真公と牛の縁もあるだろうと認めた上で、菅原道真公はある意味で犠牲となられたのだという暗示が込められていると推察するのです。牛偏に義と書いて犠牲の犠となります。牛イコール菅原道真公と考えれば道真公に非ではなく、義があった事を知っております。という暗示であると。神道に於いては、伝説的であったり暗示的であったり比喩的表現が鏤められていると感じています。新年に向かい改めて天神様をお祭りし1月25日の天神講まで菅原道真公に向き合いたいと思います。柴田家の天神様は母の父、日本画家である僕の祖父 城寳清太郎の僕への愛情一杯込めてくれた作品であり、最大の宝です。ありがとうございます。(礼)

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