とれたてblog

TOP > とれたてblog

いさら井の下準備!

今日も好天に恵まれました。午後からは「いさら井」の下準備があり、地元の河川を見回りして、ゴミなどを確認して人員の割りふりをしていきます。これは明らかな神道行事であり、稲を育てる前に河川の中に入り禊ぎをすることなのだそうです!川掃除だと思うのが普通だと考えますが、日本という國はまだまだ奥が深い、いや深遠だということです。


2月3日節分です

今日は節分です。去年は明治30年!124年ぶりの2月2日が節分でしたので、何か不思議な感じがした節分でした。鬼役のひとが鬼のお面を被り、炒り豆を「鬼は外」「福は内」という言葉を願いを込めて撒く行事ですが、今では『恵方巻き』を丸かじりするだけで終了という声もお聞きしています。この『恵方巻き』の丸かじりは関西の習慣なのだそうで、包丁で切らないのは、ご縁を切らない為なのだとか。大阪海苔問屋協同組合さんがイベントで行なわれたことにより、コンビニさんが大々的に売り出され日本全国に広まった新しいものなのだそうです。20年くらいは経つと記憶しています。去年は、宮城県仙台市秋保の慈眼寺さまの「福は内」「鬼も内」の言葉をご紹介しましたが、ほかにも氣になる言葉がありますのでご紹介させて頂きたいと思います。

 

福島県二本松市では「鬼、外」ご領主のお名前が『丹羽さま』でしたので『おには外』は言わないのだそうです。千葉県成田山新勝寺さまでは「福は内」のみとされ、お祀りされている不動明王さまが鬼を邪気を祓われるので「鬼は外」は必要がないといわれます。埼玉県秩父市三峯神社さまでは「鬼は外」「福は内」のあとに「ごもっともさま」という言葉のあとに豆が撒かれるのだそうです。群馬県鬼石地区では「福は内」と良い鬼もいるということで「鬼は内」といわれます。伊勢本宮がご鎮座になる伊勢志摩・紀伊半島においては「福は内」「神は内」といわれます。これは、ご当主が『九鬼』さまですから、そのように忖度も勿論!ございます。

 

一般的な行ない方として、鬼は深夜(丑寅の刻)にやって来ると考えられていますので夜20:00~22:00頃に行ないます。「福は内」と部屋の中に向かって撒き、玄関は最後に「鬼は外」で外に一気に撒きます。使用される「炒り豆」は魔の眼を射るという意味もあるのだとか。日本という國は何と奥の深いことか。ですね!^^

 


天神講(てんじんこう)

福井県と富山県、そして岐阜県の一部で行なわれている天神講。12月25日に終い天神、そして1ヶ月後の1月25日に初め天神を行なうという神道行事です。この天神講!日本全国で行なわれているものと、正直!思っていました。それが最初にお伝えした3県だけであると10年前に僕は知りました!!とても驚いたことを今でも鮮明に覚えています。10年前の2013.12.28カテゴリー 日本人らしく 天神講を考える にて詳しくお伝えしています。自論ではありますが、天神さまと祀られている菅原道真公と牛の関係もお伝えしています。日本の陰陽道も垣間見える天神講。何故今まで続いているのか!?この天神さま菅原道真公を描いた日本画家は母方の祖父、城寳清太郎の僕への大きな愛情を感ずる作品です!こころから感謝しています。「爺さま、本当にありがとうございます」 孫 佳一 拝、


1月7日は何の日?

今日は1月7日(土)08:08に令和5年初めての満月でした。これは月の満ち欠けによって日は変動します。変動しない日本国の行事としては『人日(じんじつ)の節句』があります。五節句のひとつであり、1年の無病息災を祈り1月7日に「七草粥」を頂くのです。あとは『爪切りの日』といわれ、新年を迎えて初めて爪を切る日となります。七草粥に爪を少し浸してから切ると1年の無病息災が叶うといいます。そのほかには、1月7日に白い馬を見ると縁起が良いとも。色んなことに願いを込める日本人の奥深さを感じるのは僕だけではないと思います。あとは地域によっても変わりますが、我が家では今日、正月飾りを納め、左義長(我が家のお隣りで14日開催)でお焚き上げします。そして来週の11日(水)に鏡餅を納め、鏡開きをします。以前までは左義長のときに鏡餅を「餅より」あ!もとい「持ち寄り」皆で美味しく頂いたことを思い出しています。今年も日本中!いや、世界中のひとびとが頃奈禍を吹き飛ばし、健康で暮らせますように祈っています。写真は、我が家の花梨の木に一休みする雀たちです。^^/


鶴のたとえ 3

「鶴のたとえ」は、日本人のこころにやさしく、そして親のようにしっかりと教えてくれます。『鶴の粟を拾う如し』は、極めて少量づつのたとえであり『鶴の粟蟻の塔』は、鶴が小さな粟の実を一粒づつ啄ばみ、蟻が砂を一粒づつ積み上げて蟻塚をつくることから、少しづつ集めたり蓄えたりすることのたとえです。『鶴の脛も切るべからず』は、ものにはそれぞれ固有の性質があり、それを無理に変えようとしてはならないことのたとえ。鶴の脛は長いが、鶴にとっては必要な長さであり、切ってはならないということ。『焼け野の雉夜の鶴』は、子を思う親の愛情が深いことのたとえ。雉は巣のある野を焼かれたら、我が身の危険をも顧みず子を救おうとし、鶴は霜の降る寒い夜に翼で子を覆って暖めることからそのように言います。日本人のこころにやさしく、そしてしっかりと刻まれる鶴のたとえ。僕の胸にジ~ンと響いています!


ここに阿尾城があった

奈良時代に越中国守の大伴家持が「英遠の浦」(あおのうら)の呼び名で『万葉集』に歌を詠まれています。断崖が海に突き出したところにあった阿尾城。戦国時代に築かれた阿尾城は、想像するだけでも誰もが目を引くお城であったと思います。築城は、阿尾川下流一帯の八代保という荘園を拠点に能登でも活躍した屋代(八代)氏でした。荒山峠を越えて能登に向かう荒山街道と山岳信仰の拠点!石動山へ向かう大窪道があり、氷見市北八代には箭代神社(やしろじんじゃ)がご鎮座になっています。


鶴のたとえ 2

鶴の入る言葉は日本人のこころにやさしく刻まれます。清らかなものや立派なもの。こころにしっかりと刻んでおく戒めなどもあります。一琴一鶴(いっきんいっかく)は、清廉潔白な役人のこと。または旅支度がとても簡易であることのたとえであり、雲中白鶴(うんちゅうのはっかく)は、世俗を超越した、こころの清らかなひとのたとえ。白い雲のなかにいる白い鶴のことで、こころが清らかで、気高く立派な人物のたとえです。鶴鳴九皐(かくめいきゅうこう)は、世間から離れて暮らしていても、良い名声が自然と知られること。「九皐」は、山の奥深い場所にある沼沢。山奥にある沼沢で美しい鳴き声の鶴が鳴くという意味から、山の奥深くに隠居している賢者の名声は、自然と広まるということのたとえであり、鶴鳴之士(かくめいのし)は、才能や能力があっても、世の為に使われることなく世間から認められていない賢者のこと。または公職についていない賢者のこと。「鶴鳴」は鶴の鳴き声のこと。山奥に隠遁している賢者をたとえたもので、山の中から鶴の美しい鳴き声は聞こえるが、その姿を目にすることは出来ないというたとえです。頷くと共に深淵さと美しさを感じます。戒めと捉えるものとして、鶴唳風声(かくれいふうせい)は、風の音や鶴の鳴き声のような、少しのことでも驚いて、恐れ怯えることのたとえ。源平合戦俱利伽羅峠の戦いでも平維盛軍が木曾義仲軍に一気に押し出されて敗走しています。華亭鶴唳(かていかくれい)は、栄華を極めた昔のことを懐かしみ、衰退した現状を嘆くことです。戒めとしてこころに刻み、鶴寿千歳(かくじゅせんざい)かくありたいものです。これは長生きのたとえです。


台風鎮めは風の盆?

倒れずに咲いてくれた菊芋(きくいも)の花です。19日から20日にかけて強力な台風14号が直撃する予報から、我が家でも対策を行ない待ち受けていましたが『無風状態』。3:00過ぎには少し雨風が強まり「いよいよ来たか!?」と身構えるも、コオロギが再び鳴き出す始末!そしてまた『無風状態』そのうちに夜明けとなりました。「えっ!台風はどうなった?」そうなんです!台風はどうして鎮まったのか?色々とご意見を聞いていると。9月1日から「越中八尾のおわら風の盆」が2年ぶりに開催されました。この「風の盆」は『風を鎮める踊り』なのだそうで、歌詞に『越中で立山加賀では白山、駿河の富士山三国一だよ』とあります。これ正に霊峰三山に護って頂いているのかもしれないという不思議な話です。^^


おかげさまですね

昨日に引き続き、良い日となりました。秋の訪れを感じています!今年の夏は、ずっとず~っと梅雨だったような、そんな気がしています。強い台風の進路も少しづつ上に向かうように変化を見せています。「これもまた白山と立山のおかげさまですね」と笑顔で言われる患者さんの言葉に同感!「いや、本当にありがたいことですね」とお答えしました。立山連峰から昇る太陽に手を合わせ、拝礼されている光景を目にします。子どもの頃には当たり前の光景!その姿にすごく日本人のこころを感じます。


おわら風の盆

今日から9月です。『おわら風の盆』が富山市八尾町で開催されると、全国からたくさんの方々が、一目見ようと来られます。『おわら』は「お笑い」が転じた説や豊作を願う「大藁」からの説、そして八尾町小原村(桐谷地区)の娘による歌から広まった説があります。風を鎮めることを祈る踊りだということです。『越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山、三国一だよ』すごいお囃子が入っていて感動してしまいます!男踊りは農作業を女踊りは蛍をとるようすを表しているのだとか?お顔が見えそうで見えない。(残念!)でも、とてもきれいな踊りにまた感動ですね。^^/