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旭将軍源義仲公

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  源義仲(木曽義仲)公の銅像を並ばせて頂きました。男が惚れる武将と申し上げてもよろしいかと存じます。左が富山県小矢部市埴生八幡さまで、右が富山県高岡市常国、弓の清水の銅像です。左は正に俱利伽羅合戦に向かう勇ましい姿であり、右は般若野の戦いの際に兵の喉の渇きを癒すため、弓で矢を放ち、的中した正にそこから水が湧き出て、軍勢大いに力の湧き出るもととなった弓の清水の銅像です。31歳という若さではありましたが、源頼朝に先んじて旭将軍を名乗り、男として武家の棟梁として充分なる一生であったことであろう。と、僭越ながらしみじみと思っています。柴田佳一 拝、


調査してお伝えします

木曾義仲公率いる大軍に加勢した越中武士団が、土地勘を最大限に発揮して平維盛軍に大勝利!その地は俱利伽羅峠、火牛の計で有名となった俱利伽羅合戦です。振り返りますと、寿永2年(1183)5月、信濃國で挙兵した木曾義仲と、迎え討つ為に北上した平維盛軍が砺波山において俱利伽羅峠の戦いを繰り広げました。このとき木曾義仲は埴生八幡宮に戦勝祈願文を奉納。夜陰に乗じ、鬨の声をあげ五百頭の牛の角に燃えさかる松明を括りつけ平維盛軍めがけて突入。不意をつかれた平維盛軍の軍勢は慌てふためき、十余丈の俱利伽羅の谷へ雪崩のように落ち込んでいきました。これが世に名高い奇襲作戦「火牛の計」なのです。この有名な「火牛の計」は、あったのだろうか?なかったのだろうか?そこに最も有力な関係者のご子孫の方のお話をお聞きになられた方から情報を頂きました。ここはやはり!しっかりとお会いして、お話を伺い調査してお伝えしたいと思います。もう暫くお待ち頂ければと存じます。


あるやなしや

よく近くにあります木曾義仲公の軍が、般若野の戦いのあとに昼食をとったと伝わる「午飯岡」の前を車で通るのですが、やはり氣になるのは『俱利伽羅合戦火牛の計』のあるやなしやの件です!子どもの頃より『牛の角に松明を括りつけ平家軍を押し出して大勝利した木曾義仲軍』と聞かされていた勇ましくも誇りと思った英雄の武勇伝!!これが架空戦記であった。と聞かされても「それこそ作り話だ!」と返す思考の葛藤があります。先日に南砺市福光の方に『俱利伽羅合戦火牛の計はあった』というお話しを伺いました。お近くの神社には『巴御前』の奉納額があるそうで、いつかお伺いさせて頂き、お話しをお聞かせ願えればと切望しています。拝、


義仲公に会いたくて

何故か源義仲公に無性に会いたくなって、久しぶりに登場して頂きました。「男らしい男に惚れ惚れするんだ」と、もちろん!男性の言葉なんですが、僕も同感です。卑怯なところも見つからぬ、そして『褒美など要らぬ!頼朝にくれてやる』越中武士団の宮崎氏と繋がりがあった義仲公は朝廷をも変えようとしていた大人物!そうなれば越中武士団も大きく変わっていたかもしれませんね。


NHK大河を見て

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が18日(日)最終回でした。執権北条氏については、あまり周知していませんでしたが、拙ブログのカテゴリー『旭将軍源義仲公』があるように「木曾義仲軍と越中武士」vs「平維盛軍」の俱利伽羅(くりから)合戦までの名所旧跡をあらためて巡ることが出来たことや、男らしい武将木曾義仲像を作品のなかで感じられたことは、とても良かったと思っています。富山県小矢部市埴生に鎮座する木曾義仲公の大きな銅像は、今の世でも大きく、そして男らしく胸を張っておられます。写真の武士を僕は今でも旭将軍源義仲公!そのひとであると思っています。関係者の皆様、最高の作品でした!ありがとうございました。


義仲公の義は永遠に

富山県高岡市中田の公園で矢を射る木曾義仲公の銅像を再び出させて頂きました。以前の写真は暗すぎて、お顔がハッキリとしなかった為に気になっていたのです。31歳ですから、きっとこのようなお若いお顔であったのかもしれません。この放った矢が刺さり、弓の清水がこんこんと沸き出でて、今に続いているのです。「木曾義仲公の義」は令和の世となっても、弓の清水のようにこれからも永遠に続いていくのだと僕は思います。


迫力満点の源氏太鼓

ご近所にご鎮座になります小矢部市下後亟神明社で、2年ぶりに『源氏太鼓』が奉納されました。この『源氏太鼓』は、1183年(寿永2年)5月に木曽義仲とそれを迎え討つために北上した平維盛が砺波山にて俱利伽羅峠の戦いを繰り広げました。土地勘豊かな越中武士団のひとり!蟹谷次郎は根井小弥太率いる2000人の中に加わり、巴御前1000人の中には水巻兄弟。樋口兼光3000人には林、富樫の両名が、余田次郎3000人には宮崎太郎と向田が加わり対峙します。夜陰に乗じ、鬨の声をあげ怯むことなく、500頭の松明を付けた牛と共に一気に押出します。不意をつかれた平維盛の軍勢は、俱利伽羅谷へ雪崩のように落下していきました。このように土地勘豊かな越中武士団加わる木曾義仲軍の圧勝となり、蟹谷次郎の勝鬨太鼓が鳴り響き、喜びに舞い踊り、そして美酒に酔い笑い声が長く聞こえたことだろうと推察します。「これこそ越中武士団の誉れ」このときの勝鬨太鼓が、先日9月11日の小矢部市下後亟神明社2年ぶりの『源氏太鼓』なのです。839年経って今尚、蟹谷次郎のご子孫の方々や地元のみなさんにこれからも大切に保存されていくのだろうと思います。感動です!柴田佳一 拝、


義仲公の男らしい生涯

木曾義仲公と巴御前の像です。男が惚れる、そして憧れる義仲公の生涯。文豪芥川龍之介をも魅了した木曾義仲公。その文豪が遺した『木曾義仲論』を以下、一部抜粋させて頂きます。最初の一節は有名で、僕も好んでいます「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也」「彼は彼の熱望せる功名よりも更に深く彼の臣下を愛せし也」「彼が彼たる所以、唯此一点の霊火を以て全心を把持する故たらずとせむや。彼は赤誠の人也、彼は熱情の人也」「彼の社会的生命はかくの如く短少也、しかも彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野快とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり」義仲公の生涯は日本男児のこころを大きく揺さぶり、そして惹きつけます。ここでいう男らしい生涯とは!今の我々に問われているのかもしれません。『彼の生涯は日本男児のこころを大きく揺さぶるもの也』柴田佳一 拝、


旭将軍さま

 

 旭将軍源義仲公肖像画です。31歳という若さでしたが、武家の棟梁でした。何故か、不思議な魅力に多くの男が惚れ込んでしまう旭将軍さまなのです。

 


川田八幡宮社標

般若野の戦いに勝利した木曾義仲の軍勢5万が、砺波市小島の午飯岡で昼食をとったあとに立ち寄った砺波市西宮森にご鎮座になる川田八幡宮の社標です。正面には『八幡宮』左横にこの文言が刻まれています。「寿永二年五月木曾義仲が当八幡宮に祈願平維盛の軍を俱利伽羅峠に夜襲し之を撃破せり」と。この八幡宮は当院から約5分の地で、砺波市小島の午飯岡も約5分の地にあり、当地を進軍する勇ましい姿が目に浮かぶようです。