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「我未だ木鶏たり得ず」

「我未だ木鶏たり得ず」この言葉は昭和の大横綱双葉山定次関によって僕は初めて知りました。

 

先日!患者さんが「感動したので持ってきました!読んでみてください」と手渡された文章のなかにあった一文です。さだまさしさんの書かれたものとお聞きしました。僕自身も同様の思いがあり!深く感動し、拝読させて頂きました。お伝えしたくて以下、一部引用転載致します。

 

(一部引用転載開始)

 

かつて双葉山の連勝が六十九で止まった時、彼は恩人に「我未だ木鶏たり得ず」と電報を打った。最強の闘鶏は木彫りの像のように微動だにせず、相手を睨み殺したという。「私は未熟で、それほど強くありませんでした」と。当時一場所は十三日間で一年は二場所だった。双葉山は関脇の時から連勝を続けながら横綱になり、都合六十九連勝する間、足かけ三年近くの間一度も負けなかった。その人ですら「私は強くない」と、謙虚さを忘れない。これが「道」だ。強ければ強いほど穏やかで優しく、また美しくあらねばならないのだ。

 

かつては仕切り中に力士同士が睨み合うことすら「非礼」だと叱られたもの。勝者は敗者に、また敗者は勝者に「礼を持って」接するのが大丈夫たる力士の心得だろう。行司が懐に刀を呑んでいるのは勝負を差し違えたらその場で腹を切るという覚悟を表す。その「覚悟」や「美学」を力士たちが心底理解しなければ「相撲道」は死ぬ。ファンはただ強いだけの相撲取りを求めているのではない。心までも強く美しい真の男が見たいのだ。

 

しかし思えば、今や日本中が誰も彼も「無礼」な時代。目上の者に対する心遣い、言葉遣いから、目下の者への細やかな慮り、気配りといった我が国の「心の文化」はアメリカ直輸入の「自由平等」の誤った解釈のお蔭で既に「半死半生」だ。志の低い人は低い山の頂で十分に満足し、それを誇示するだろう。しかし志の高い人は低い山に満足しない。低い山の上で幾ら格好つけても、自分の心はそこが最終目的地ではないことに気付いているからだ。そして次への挑戦を繰り返すことでどれほどの高さに至っても奢らず、満足せず、更に上を見つめようという境地に至るのだ。

 

八百六十八本という通算本塁打世界記録保持者の王さんはその数字に奢らなかった。驚くべきは、引退した年にも三十本の本塁打を放っているのだ。しかし「私の打球ではない」と静かにバットを置くプライドと潔さと勇気に満ちていた。これを品格というのだ。

 

(一部引用転載終了)

 

正にその通りだと思います。日本人の背中にある大切な刀を抜き取られた様な「現代日本文化をこそ悲しむべきであり!自分のために礼と誇りと謙虚さを学ぶべき」というさださんのメッセージをこころ静かに刻み込むのでした。ありがとうございます。(感謝)

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