とれたてblog

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GOGO!

実は5月5日から、七ちゃんの体重を減らそうと、いや嘘はいけませんね!僕の大きなお腹をぺったんこにする為に、みんなで早く起きて散歩をすることにしましたぁ。(笑)七ちゃんにハーネスを持って装着しようとして近づくと、ササッと逃げていくのが何ともかわいいです。でも散歩を終えますと、僕と同じで心地いい疲れがあるのか良く寝てくれますし、とても穏やかな気がします。やはり、散歩を始めたのが5月5日なので「GOGO!」で良かったな。と僕なりに思っています。そしたら七ちゃんが『続けようね』っていってくれました。ありがとう七ちゃん!^^/


旬の食材と備蓄の拡散

う~ちゃんに旬の食材を頂きました!「カタハ」と「フキ」です。葉と茎を切り分け、茹でました。お漬物に煮物、そしてマヨネーズ和えも美味しく頂けます。旬の山菜をはじめ、菜花やタケノコ、そして山椒などの料理は、我々のからだを健やかに保つため『人』に『良』いもの。即ち、本物の『食』なのです。除草剤や農薬などの化学物質を微塵も吸い込んでいないものに強く拘って食したいものです。東北の方からの情報で、今年は天候不良の影響が出そう!という考えのもと、食料品の備蓄が広まっているそうです。僕たちも去年からお伝えしていますが、ドンドン拡散され日本中に広がればと思っています。「東北の方に感謝です」^^

 


葵塚(あおいづか)

葵塚(あおいづか)です。源平合戦俱利伽羅峠の戦いで、砺波山にて葵御前は命を落としました。20代後半であろうと推察します。91歳の生涯を生き抜いた巴御前は、亡くなる前に『葵の近くに埋葬してほしい』と越中福満の石黒氏に依頼し、葵塚の右側やや高き所に巴塚があります。葵塚碑文には「葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す 屍を此の地に埋め墳を築かしむ」これもまた朽ちたのか、削られたのか巴塚と同様になっていました。からだが弱く、とても戦場に立つことは叶わない葵御前!義仲公への篤き思いが、巴御前と並び青い薙刀を振り回し武功を挙げたのだろうと思います。若くして命を落としましたが、義仲公への篤き思いからすれば、葵御前は本望であったろうと僕は思います。「葵さん、また伺いますね」合掌。


巴塚

今日は良い天候にも恵まれ、富山県小矢部市にご鎮座になります埴生護國八幡宮に参拝を済ませてから、巴塚と葵塚へと足を運びました。やはり大河ドラマ『鎌倉殿の13人』への注目度は高く、俱利伽羅合戦の地は、今まで以上の人気でありました。巴塚では、巴御前は91歳の生涯を懸命に生きたという充実感を感じたのですが、左に位置する葵御前の葵塚では、若くして夢半ばで亡くなった故なのか、もの哀しい感じというか、そんな思いが込みあげてきました。僕的には、ふたりの御前の塚の碑文が朽ちていたのか、故意に削られたのか分かりませんが、碑に傷みがあることに少し残念に思いました。「また会いに行きますね!」合掌。


令和4年度の田植え

今日は、早朝5:00から妻の実家のご近所さんと田植えをしてきました。好天に恵まれ、とても爽やかな日であり、役割分担もスムーズに事が運びます。正に息がピッタリ!という感じです。今の田植え機は、GPS搭載でありハンドル操作が省略されます!まだまだこれから進化するものと思われます。これからは農作業もロボット化してくるのかもしれませんね!僕自身、いつもは日焼けなどしないのですが、今日一日でかなり日焼けをしたようで、今日は熟睡するだろうと確信しています。みなさん!ありがとうございました。そして、お疲れさまでございました。(感謝)


楽しくあれ

僕は今61歳!僕らの年代は『がんばれ・頑張れ・ガンバレ』『頑張らないからダメなんだ』『もっと頑張れただろ』という声が四方から聞こえていましたし、僕自身も同じように言っていたと思います。部活動のときなども『水は絶対に飲んではいけない』など!全く根拠もないことを思い込み、只管に我慢していた年代だといえます。だからいつも変な風に力が入り過ぎてしまい!そのことに気づけず、逆にストレスを溜める要因となっていたのではないかと思うのです。還暦を過ぎて、ようやく気づいたものですから、先日のブログ「伝えてあげたいこと」で、無理しないで!頑張らなくていいよ!ってお伝えした次第です。もう一度お伝えします。新入生のみなさん。そして新入社員のみなさんにひと言。「そんなに無理して頑張らなくていいよ!無理をせず力を抜いて、そして楽しくあれ!」^^


巴御前の生涯

木曾義仲公が巴御前に落ち延びるよう命じているところです。義仲公は、自害する場所を探していた処!馬が湿地に脚をとられ、そこに矢が放たれ絶命したと伝わります。巴御前は義仲公の命を受け落ち延びましたが、鎌倉の頼朝に呼び出され和田義盛の妾となります。『鎌倉殿の13人』のひとりですが『武骨さ』を和田義盛にも感じています。和田合戦の後に源平合戦俱利伽羅峠の戦いで共に戦った石黒氏を頼り、越中國福満(富山県南砺市福光町)に身を寄せ、尼となり木曾義仲公と和田義盛の霊を弔いながら91歳の生涯を終えたと伝えられます。「巴は義仲に従い源平砺波山の戦の部将となる 晩年尼となり越中に来たり九一歳にて死す」(巴塚碑文)木曾義仲公は31歳の生涯であり、巴御前は義仲公の分まで懸命に生き切ったのだと僕は思います。そして青木崇高さん秋元才加さんお疲れさまでした。