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今日は左義長です。

今日は当地区の左義長を行います。

今朝9:00に公民館審議委員の皆さんや児童クラブのお父さん方をはじめ有志の方々がたくさん集い!左義長の準備をされていました。^^

 

かくいう僕も、6年ほど前に大雪と強風のなか準備を行ったことがあります。いくら役員とはいえ!とても寒くて手が動かない有り様で、大変だったと記憶しています。

 

本当に厳しい寒さのなかの準備等々!誠にありがとうございました。午後6:00の点火となっています。日に日にお正月行事が粛粛と行われていきます。

 

自然の流れのように過ぎていく日々に!そして朝から準備に入られた皆さんに!こころから感謝を申し上げたいと思います。みなさん本当に寒いなかありがとうございました。(感謝)


1月11日は鏡開きです。

今日、1月11日は鏡開きです。もう新年が明けてから11日が経過したのには、早すぎてビックリです!

 

今日の良き日に僕の住む富山県砺波市では、成人式が盛大に行われた後地元の公民館などで改めて成人の門出を祝います。逞しい男性!美しい女性!が集うところでは、たくさんの拍手とフラッシュが待ち受けています。「ほんとうにおめでとう」

 

早いところでは左義長も行われると聞いています。お目出度い年中行事がかさなるということで、明るい年になりますように祈念する次第です。(礼)

 

 


1月7日は七草粥です。

今朝の食事は七草粥でした。^^/

妻は昨日から「明日の七草粥は玄米だからね~」と言っていたので凄く楽しみにしていました。

 

去年の拙ブログでは「人日の節句」と題して詳細を記しましたが!あれからもう一年が経過したとは思えないくらいです。年末年始で疲れた胃にやさしく浸透し、くだっていく我が家の玄米七草粥は五臓六腑に沁み渡り!僕自身にハリを与えてくれました。

 

上の写真は!雪模様だった空が、高瀬神社に到着した僕たちを迎えてくれた上空を撮影したものです。そのくらいにスッキリとした気持ちをお伝えしたくて掲載した次第です。

 

「日本人の昔からの伝統行事を大切にしていくことこそ!心身ともに健康で暮らす秘訣である!」と聞いた事を思い出し「正に然り!」と強く思いました。

 

人日の節句!ありがとうございます。

七草粥!ごちそうさまでした。^^


医薬医療の神。「なでうさぎ」

撫でられているうさぎこそが!医薬医療の神として崇敬されている「なでうさぎ」です。^^

 

高瀬神社のご神前に置かれています。もうたくさんの方々に撫でられてピカピカ!に光っています。大己貴命(大国主命)は、不心得者の因幡の白うさぎを改心させ、怪我の治療をされた事から本題の通り『医薬医療の神』として崇敬されています。「このなでうさぎを撫でると心身ともに清々しく過ごせるのです」と地元では評判のうさぎさんなのです。

 

この神話に因み、大国主命(大国様)の御神徳を広くご参拝の方々にお受け頂きたいと思い御神前に置かれました。ご自分の癒してもらいたい部位と同じ所を祈念しながら撫でて、広大無辺なる大神様の御加護を頂きましょう。(高瀬神社より)

 

本当にありがたいことであり、僕自身も治療家として医薬医療の神「なでうさぎ」をしっかりと撫でて、みなさまのお役に立てればと思い、頭と胸をめちゃくちゃたくさん撫でてきました。^^

 

ありがとうございました。(礼)

 

 

 

 

 

 


越中一宮高瀬神社参拝。

今日は南砺市に御鎮座になります越中一宮高瀬神社に参拝してきました。たくさんの参拝者が整然と順番を待っての初詣!これぞ日本の素晴らしい国民性です。

 

家を出た時から雪模様でしたが、到着の際から快晴となり眩しくてサングラスが必要なくらいです!これは神様が祝福してくださっているのだと僕なりに解釈して、妻と共に太陽を見つめるのでした。


誉建神社元始祭参拝。

今日!二日は地元誉建神社元始祭という事で参拝してきました。今年も皆が健康で良い年でありますように祈念し、身祝い!地元企業へのお祓いがありました。

 

柴田接骨院は最後から二番目でありました。感激もひとしおです!すべてのお祓いが終了したあとは、直会があり、河合宮司様に一献差し上げてご挨拶申し上げ帰ってきました。伊勢御遷宮お白石持ち神事以来!いつもお世話になっており、妻共々感謝です。(礼)

 

元始祭が始まってから、天候が雪から晴れへと変わりました。これはまた不思議なことだなあ!と思い。「ありがとうございます。」と、ひとりつぶやくのでした。^^


僕がウイスキーが好きなわけ。

毎夜、録画したNHK朝ドラを見て楽しんでいます。『マッサン』は、

日本のウヰスキーの父!と呼ばれた竹鶴政孝とスコットランド出身の妻

リタ夫婦をモデルにしています。

 

北日本新聞発行のまんまる1月号通巻128号より一部引用致します。

 

(一部引用転載開始)

 

  運命のスコットランド留学

広島県の酒造業の家に生まれた竹鶴政孝は学生時代から洋酒に興味を持ち、大阪の摂津酒造に入社した。やがて社長に認められ、大正

7年(1918)24歳でスコットランドに留学。グラスゴー大学に学び、蒸溜所で実地研修をして本場のウイスキー製法を体得していく。あるとき柔道の指導を頼まれ、訪ねた家で運命的にリタと出会う。リタは政孝の魅力にふれ、抱く夢を一緒に叶えたいと共に生きることを選び、周囲の反対を押し切って結婚。政孝は新妻と大正

9年(1920)に帰国。第一次大戦後の不況の中、摂津酒造はウイスキー製造を断念。政孝は辞表を出し、しばらく浪人生活を送った。その後、別の酒造会社に籍を置きウイスキー製造に貢献した。そしてついに独立し、自身が理想とするウイスキーづくりという夢を叶えるため北へ旅立った。

 

  夢を追い北海道余市町へ

北海道積丹半島の付け根、余市町。寒冷で適度な湿度があり、良質な水、ピート(泥炭)も豊富なその地で、政孝は昭和9年(1934)「大日本果汁株式会社」を設立。リンゴジュースなどを製造しながら、熟成に時間がかかるウイスキーの原酒をつくり続けた。そして昭和15年(1940)ついに第一号ウイスキーが誕生し「大日本果汁」を略して「ニッカ(日果)ウヰスキー」と命名した。終戦後の昭和24年(1949)に種類は自由販売となり、市場は模造ウイスキーで賑わった。しかし政孝は品質第一の姿勢を貫き、社員は強く結束して原酒を守りぬいた。

 

  受け継がれる品質主義

夫を「マッサン」と呼び、日本料理の名人にまでなったリタ。日本人よりも日本人らしく夫を支え、昭和36年(1961)64歳でこの世を去る。リタを失った政孝は貯蔵庫でテイスティングに没頭し、翌年選りすぐりの余市蒸溜所の原酒をブレンドした「スーパーニッカ」続いて「ハイニッカ」を発売。どちらも好評を得て「ニッカ」は全国ブランドへと成長していく。余市蒸溜所では今も石炭による直火蒸溜を行なっている。ウイスキーづくりの原点と、品質第一主義を受け継いで歩み続けるニッカ。晩年、政孝は病床でも水割りを飲み、まさに最後までウイスキーと生き、昭和54年(1979)85歳の生涯を閉じた。今は最愛の妻とともに余市蒸溜所を望む墓地に眠る。

 

(一部引用転載終了)

 

日本人より日本人らしいエリーことリタさんが亡くなって53年が経過しているのですね!?僕が生まれたのが昭和36年(1961)ですから暗算より容易いですね。それにマッサンと同じく柔道をしていたということ。^^

 

僕がウイスキーを好むのもマッサンとリタさんの意思を継いでいるのかもしれない・・・・!?「うん!きっとそうだ。そうに違いない」

 

「そんなわけないでしょ!」^^

 

  


討ち入り当日!

城明け渡しより、長きにわたり秘めた思いを胸に愈々!今夜決行です。失敗は許されません!

 

左上の写真は、小屋に潜む吉良上野介を引きずり出し取り囲み、そしてご生涯を迫る一枚です。ここでも上野介は有るまじき行動に出て内蔵助の「卑怯!」という言葉と共に、ご主君最後の短刀にて胸を突かれ絶命します。まさか!こんなことになるとは思ってもいなかっただろうと思いますが、すべて自分自身が引き起こしたことであり自業自得!因果応報!と上野介も認めたことでありましょう。

 

映画では脚色されている場合が多く、討ち入りの装束も火消のいでたちが数名とあとはバラバラであったらしく、山鹿流の陣太鼓も実はドラであったのかもしれない!と聞いています。

 

しかし、赤穂事件は作り話ではなく事実あったものです。浅野長矩の他にも御馳走役をいじめていたという記録も残っています。師走に入り一年を振り返り!ひと様に気に障る言動がなかったか!?卑怯な振る舞いはなかったか!?立ち居振る舞いをもう一度厳しく見直すことの出来るように!『年末にかけての放送を復活させてほしい』と、討ち入りそばを食べ乍ら思っている次第です。拝、

 

 

 


討ち入り前日!

今日は討ち入り前日です。47名はどのような思いで過ごしたのだろうか?大石主税などはまだ16歳、矢頭衛門七18歳である。

 

「武士たる者は正にそういうものなのである」と二人の若者に一喝される53歳の今の僕がここに居るのでした。左上の写真から聞こえてくるのは!?「鬼さんこちら♪手の鳴る方へ♫」京都山科に住まいを移した大石内蔵助が、敵を欺く為に目立ち過ぎるくらいに遊ぶ姿を見せつけている一枚です。

 

それだけに止まらず大切な家族を守る為に、母様をはじめ奥様までも欺こうとする姿に涙が溢れ、胸の奥そこが痛みそして響きます。

自分自身に当てはめて見てみても果して出来るだろうか!?

 

大石内蔵助の同士の方々に対する立ち居振る舞いと思いやりのあまりにもの大きさに、日本人の真髄を見たような気がします。(礼)

 

愈々!明日討ち入りです。

 

 


討ち入り二日前!

今日は赤穂事件の二日前です。大石内蔵助の「大義ある討ち入りでなければならない!盗賊の如き襲撃であってはならない」の言葉に冷静さを取り戻した浪士一同は、当日その時まで只管!我慢したのです。

 

血気盛んの屈強な若者をここまで統制する城代家老大石内蔵助の人間性は、正にひとの上に立つに相応しい人物であることは日本中のひとが認めていると僕は思います。

 

47名に絞り込むまではアノ手コノ手で振り回し、篩に掛けて選りすぐりの同士を集めていく才能の凄さに、日本男児として何ともいえない胸の高まりを感じます。

 

幕府側用人柳沢吉保の歪んだ権勢は、家康公の定めた「喧嘩両成敗」をも歪めてしまう大失態!勘違いをした偽権力者は、お金によって身を持ち崩すのである。いつの世も同じなのかもしれませんね!(笑)

 

犬公方徳川綱吉と側用人柳沢吉保では、世の中を牽引するに相応しい筈もなく!今の世の中とも照らし合わせて考える必要がありそうですね!そう二日後に正にその時がやってくるのですから・・・。

 

赤穂事件も「いじめ」の一端から大事に発展したのかもしれず!また『塩』が絡んだのかもしれず!?喧嘩相手に「塩を送っておけば

良かったのじゃ」息子の上杉さんも後になって気づいたのかも!?