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大坂なおみ日本登録のワケに涙!

テニス全豪オープン26日女子シングルス決勝を制した大坂なおみ選手は優勝賞金410万豪ドル(約3億3000万円)を獲得し、世界ランキング1位となりました。大坂なおみ選手は北海道出身の母、環さんとハイチ出身の父、フランソワさんとの間に大阪で生まれ、3歳でアメリカに移住しました。二重国籍で、日本語は話す方が苦手。それでも日本登録で出場し「日本人」として初の快挙を成し遂げました。大坂なおみ選手が日本登録で出場する理由とは?

 

この見出しは日刊スポーツさん。あまりにも感動しましたので以下、一部引用転載致します。

 

(転載開始)

13年9月の東レ・パンパシフィック大会の時だった。日本テニス協会の女子代表コーチだった吉川真司(40)は、日本登録で出場していた選手をくまなくチェックしていた。予選1回戦で敗れたが、1人の初めて見る選手に、目がくぎ付けになった。それが15歳の大坂だった。

 

「すごい才能だと思った」すぐに当時の女子代表監督だった村上武資氏、植田実強化本部長に大坂の存在を報告。それ以来、日本に来たときは、味の素NTCで練習できるように取りはからうなど、地道な支援を続けてきた。吉川氏も代表コーチとして大会に派遣され、大坂が出場していれば必ずコンタクトを取り続けた。

 

大阪は米国テニス協会のジュニア大会に多く出場しているが、目立った成績は残していない。米国では完全に埋もれた存在だった。大坂一家は米国協会に支援を申し込んだが、大して取り合ってもらえなかったという。しかし大坂が16年全豪で予選を勝ち上がり本線で3回戦に進むと、米国協会は強烈なアプローチを仕掛けてきた。

 

日米争奪戦の勃発だった。米国は女子代表監督が自ら乗り出し、多額の支援を約束したと伝えられる。だが大坂の父フランソワさんは、無名の時から娘を支援し続けた日本の恩義を尊重したという。だからこそ、いまでも大坂は日本で登録し続けるのだ。

 

吉川氏は「僕は代表コーチとして手助けしただけ。コーチはバイン氏」と遠慮する。確かに、あくまで大坂の専属コーチはバイン氏だ。彼の手腕が卓越した大坂の才能を開花させたことは間違いない。母、環さんが、日本の文化や料理を娘に伝え続けなければ、大坂自身が「私のメンタリティーは日本人に近い」と認識することもなかっただろう。ただ、吉川氏がいなければ、大坂が「日本人」として4大大会の優勝杯を掲げることがなかったのも事実だろう。[吉松忠弘]

(転載終了)

 

どうだろう!実はこの記事を朝食を作っている妻に読み聞かせていたのですが、・・・だが大坂の父フランソワさんは、無名の時から支援し続けた日本の恩義を尊重したという。・・・の文章が、感動のあまり涙で言葉に出来ませんでした。

 

日本人として大切なことをもう一度!思い知らされました。大坂なおみ選手!ご両親をはじめとした関係者の皆さん!本当におめでとうございました。そしてありがとうございました。

 

柴田佳一 拝、

 


平成最後の天神講

今日は1月25日、初め天神の天神講でした。紅白の蒲鉾と金粉入りの御神酒でお祭りして納めました。この天神様は母方の祖父、城寳清太郎の筆であり、僕の宝物です。僕の為にこの天神様があるのです。京都から福井へ、そして富山へと今に伝わる天神講は、地元にとっては大切な神道行事として連綿と続いています。各家庭で今日という日は厳かな一日といえます。

 

天神様に寄り添う牛たちにも感謝を伝えて納め、今年の新年号の終い天神まで、ゆっくりとして頂こうと思います。「ありがとうございます」


成人おめでとう

富山県では13日(日)小矢部市を除く全市町村で成人式が行なわれました。僕も役員として出席させて頂き、お祝いを申し上げた次第です。そして、本当に初々しい姿と溌溂とした意見に感心しました。「成人おめでとう。みなさんのご活躍を祈ります」^^/


虹の松原2

昨日に続いて「虹の松原」の内部に侵入しているところです。ご覧の通り黒松が群生していて、しっかりと役目を果しています。唐津藩主寺沢広高さんの功績は、300年を経過しても揺るぎないものです!「先人のおかげで今がある」ということを忘れてはならないと僭越ながら思います。この写真は平成15年の9月に撮影したものなのですが、所々に彼岸花の群生したオレンジ色が、僕の目には今も焼き付いています。あ!それときれいに透き通ったイカのお刺身が、僕の脳裏に焼き付いて、いや!沁みついています。やっぱり美味しいものには勝てませんね。^^


佐賀県唐津市 虹の松原

今日のお昼ご飯を頂いていると目の前に美しい虹が現れました。おかげで美味しく頂くことが出来て良かったです。「虹」って本当に気持ちが晴れるものですね。やはり晴れ間に一番似合いますね。そんなことを考えていると佐賀の友人宅の後方にあるすばらしい『虹の松原』を思い出してしまいました。12月に顔を出してくれてありがとう。^^

 

虹の松原(佐賀県唐津市)唐津湾の海浜に長さ4.5km幅0.5kmに続く国の特別名勝です。三保の松原、気比の松原と共に日本三大松原と呼ばれる景勝地です。17世紀初め、初代唐津藩主寺沢広高が防風と防潮のために海岸線の砂丘に黒松を植林したのが始まりです。現在でも約100万本の黒松が群生しています。正に圧巻でありました。また七ちゃんを散歩に連れて行くからよろしくね!


終い天神

きのうは12月25日でしたので、天神様「菅原道真公」をおまつり致しました。この天神様は、僕の母の父、里の爺様が僕のために描いてくれた宝物です。もちろん臥牛も横に置きました。この「牛」には深い意味が隠されています。然し、このようにして天神様をおまつりしているのは、福井、富山、岐阜の一部だけだとは思ってもみなかったことであり、日本全国で行なっているものだと思っていました。来る1月25日の初め天神まで、しっかりとおまつりしたいと思います。


タイムスリップ

約50年前の富山のごちそう「ごっつお」の写真です。結婚して初めてお嫁さんの実家に挨拶に行ったときに出された御膳なのだそうです。海の幸に里の幸、山の幸とすべて揃った見事な御膳です。おとなりの九谷焼の徳利で杯をかさねれば、朱色に染まった笑顔がうれしいご両親!と、言ったところでしょうか。ひと昔前までは、蔵にお祝いの際に使う膳をはじめ、たくさんの器がきれいに並んでいたものです。その時代の一枚の写真からたくさんのことが思い出されます。少しだけタイムスリップした感じが不思議です。^^


西郷隆盛の最期

以前に西郷隆永の名で紹介した「西郷どん」も昨日で最終回。早いものですね!西郷どんの最期に涙が止まりませんでした!左の写真は、中央が西郷どん、向かって左が大久保さあ、右が弟の従道が写っています。これはフルベッキ集合写真という幕末志士が写っている貴重なものです。実は、従道の横に別府晋介という人物が写っているのですが、この人物は人斬り半次郎と呼ばれた男!中村半次郎こと桐野利秋の母方の従弟で、西郷どんに「晋どん!ここいらでよか」と、いわれ「ごめんやったもんせ」の言葉で西郷どんを介錯しました。西郷隆盛の最期を知る人物です。

 

賊軍の総大将を撃った人物の名前が出て来ないのはどうしてか?と言われれば、僕は功績ばかりではなく人間的にも多く慕われた西郷隆盛を撃って軍功を立てて名を残すということを人として出来なかったのだろう。と、僕なりに推察しています。それほどの大人物!西郷隆盛なのです。

 

今回の「西郷どん」は細かなところまで再現されていて凄かったですね!西郷どんの右額の毛の薄さは、キセルの頭を右額に近づけるために薄くなっていたものです!まさかそこまで再現していたなんて。「凄い」です!!

 

そうした西郷隆盛の死は、国父久光公と島津忠義公の髷にも影響を与えていたのかもしれませんね。(僕の推察です)

ありがとございもしたあ。

柴田佳一 拝、


島津公の髷!

薩摩藩、鹿児島藩最後の藩主「島津忠義公」です。前藩主斉彬公の弟、久光の子でしたが、斉彬公の遺命により養嗣子となり、父久光を差し置いて襲封します。尊敬する父への配慮から、後見となる父久光を「国父」とし、礼を持って厚遇しました。父久光は、急速な欧化政策に反対!明治維新後も新政府にあくまで同調せず、大名の体質を捨てきれず生涯、髷を落としませんでした。

 

最後の藩主、島津忠義も尊敬する父久光「国父」の意思を尊重し、明治30年に世を去るまで、父に倣い髷のままで生涯を通したのです。享年57は、今の僕の年齢です!「男です」「お見事です」僕もきっとそうしたと思います。


西南戦争政府軍

「西郷どん」で西南戦争が放送されました。西郷どんと桐野利秋は賊軍とされるなか討死します。写真がその相手の熊本鎮台の政府軍です。中央が、谷干城(たに・たてき)3万以上に膨れ上がった西郷隆盛率いる薩摩軍は、熊本城鎮台を攻撃。しかし50日を経過しても攻め落せません。そのうち逆に7万の新政府軍に追われ敗走します。16日(日)「西郷どん」の最終回で、ラストサムライ西郷隆盛と人斬り半次郎こと桐野利秋が武士としての最期の戦と位置づけ死を迎えます。

 

谷干城(たに・たてき)

天保8年(1837)~明治44年(1911)写真中央の人物

土佐藩士。尊王攘夷論者であったが藩命で上海に出向いたことをきっかけに攘夷を捨てる。東征で軍功をたて、明治維新後は陸軍少将、熊本鎮台司令長官。熊本籠城戦で薩摩軍の猛攻をしのぎ、陸軍中将となった。

 

もうすぐ最終回!みなさん『おやっとさあでしたあ』