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あれ!?

昨日の午前に、北陸道下り線を愛車シーマ君でひた走り!有磯海Pにて暫し休憩の為に入店すると!今迄にない静けさにビックリ!

 

いつもは凄いくらいのひとの数なんですが、上の写真の通りです。こんな珍しいことはないとばかりに色んな商品を見て回りました。「ますの寿し」に「ほたるいかの沖漬」に「しろえび、かにせんべい」。日本海の海の幸や黒部の乳製品に、それを生かした和菓子に洋菓子と次から次へと見ている内に目が回ってしまいました。^^

 

愛車に戻って「何で今日はひとが少ないんだろう?」と考えていると!師走も20日を過ぎているのを忘れて、いつもと同じように過ごしている自分にやっと気がつくのでした。


院長の四・五十肩の話!4

今回で4回目になりましたが、僕なりに経験した事から、気づいた事などをまとめてお伝えしています。

 

勿論!学生時代に学んだ物理的療法も当時は行なっていましたが、回復を過度に助長するものではなく!患者さんには、ご負担であったものと推察するに至りました。一度!頭の中にこびりついた思い込みを外して、自然に感ずるままの治療を行うことで、患者さんも兆しが見えて意欲的になり、治癒する期間が早まりました。

 

「アイロン体操」躯幹を曲げ、痛む手にアイロンを持ち!肩の力を抜いた状態で、振り子の様に前後に振る運動は、リハビリの中では最も行われていたものです。窓を拭きながら手をあげる方法や大きなハンドルを回す方法も懐かしく思い出します。

 

然し乍ら、痛みが強くロックが掛かった肩の運動は拷問に近く!行

なった日の睡眠は妨げられる事が多い!という結果でありました。僕の四・五十肩の経験は、それをハッキリとさせてくれました。

 

ですから、痛みを我慢して無理やり動かさない事が大切です。三導療法を行い乍ら、肘を曲げた状態で動かせる範囲内でのみ動かすようにこころがけてください。

 

その三導療法は、左のカテゴリー三導療法を選択して頂き、下記のブログを参考にしてください!お願い致します。

 

三導療法!(四・五十肩編)2 2014.07.20

三導療法!(四・五十肩編)  2014.07.19

三導療法!(腹痛)      2014.07.15

三導療法!(上肢の疼き編)  2014.04.04

三導療法!(肩の痛み編)   2014.02.06

 

続けることにより治癒する期間が、必ずや早まります!

「最近よく眠れるようになり、アレッ!?動かせるよ!」

という声が、もう少しで聞けると僕は思っています。

 

このブログが一助になれば。

 

 


院長の四・五十肩の話!3

今回は、院長の四・五十肩の話!3ということでお願い致します。前回では、痛みを早く取り去り回復させる為に!患部を温める方法をお伝えしました。入浴などで温め、お酒を頂いて新陳代謝を図り、長引く痛みで疲れたこころを温めて「ホッ」として頂くことが治癒するまでの期間をグッと早めます。お試しになられましたら必ずやお分かり頂けると僭越乍ら確信しております。さて!今回お伝えする話は、またまた代謝を上げる方法!「運動」です。ジッ!としていてもそう代謝はあがってはきません!行動して初めて結果がご褒美として付いてきます。痛む肩は正に!ロックが掛かっている為に、動く範囲が制限されています。ですから肩の運動ではありません!三導療法と併せて行う肩を動かす方法は、次回となる予定です。

 

四・五十肩を早く回復させる運動は!『歩くこと』です。今は天候や降雪による道の状態を考慮せざるをえませんが、兎に角下半身の大きな筋肉を使うことなのです。これは全身に良い影響を与えてくれる最たるものだと考えています。痛む肩にカイロを当て、暖かいものを身にまとい出発です。天候にあわせて『外』や『施設』または『自宅』で行なえると思います。然し、一番良いのは日光を浴びて歩くことであることは言うまでもないことと思います。薄っすらと汗が出てくるくらいの距離と時間は、個人差がありますので、ご自分で調節してください。身もこころも引き締まってくる前に!肩の状態が良くなるのをお感じになれると思います。あとはもう入浴して一杯!「おっと、もうひとつ忘れいてました」

『痛む肩を撫ぜながら、今までの感謝の言葉をかけること』です。

これが一番大事なのかもしれません。^^

 

すみませんが、次回に続きます。

 


院長の四・五十肩の話!2

さて、院長の四・五十肩の話!2という事で始めたいと思いますので宜しくお願いします。^^

 

痛みが強くて、まるでロックがかかったように腕が上がらない!後ろに手が回らない!僕もこれには参りました。然し乍ら、発症に気づいたのが初夏でしたので幸いでした。夏のクーラーには多少の痛みは感じますが、体が動いている為に代謝が良く!夜間の痛みだけが苦痛でした。これは皆さん!多少の違いはあっても大体同じであろうと思います。

 

肩関節周囲炎という名から(炎)炎症が起こっているので、冷やさないといけない!と思われる場合もあるかもしれませんが、その逆で温めなければなりません。見た目でも腫れがありませんから心配なされずに温めてください。

 

お風呂でゆっくりと温める入浴法や、シャワーだけの場合では、やや熱めの温度にして痛む肩に直接シャワーする方法など!工夫して行なってみましょう。お風呂にひとつまみのお塩と重曹を溶かして入浴すると!ものすごく温まるのでお勧めです。^^

 

身体が温まりましたら、湯船の中やシャワーを当てた状態で、痛む側の肘を曲げ動かせる範囲内で腕を前後左右に動かしてください。この場合は、無理は禁物であり「多少の痛みは我慢して動かす」という方法は除外します。何故なら!?長引く要因だからです。

 

入浴が終わりましたら、冷水でゆるめに絞ったタオルで痛む肩を拭きます。入浴で開いた汗腺を閉めて熱の放射を遮り、冷えを防ぎます。慣れてくると爽やかな気持ちになり、兎に角!温まります。

 

入浴後は、今のような寒い時期はカイロを貼ったり!温感シートなどを活用されればよろしいかと思います。あと!飲めない方に無理に勧めませんが、適量の飲酒をして血流促進を図ります。痛みで眠れないといったストレスは解消出来るかもしれません!只、飲み過ぎはいけませんのでよろしくお願いします。^^

 

すみませんが、次回に続きます。拝、

 

追記!『使い捨てカイロ』という画期的商品を製造してくださっている会社の皆さん!本当にありがとうございます。物凄く助かっています!(感謝)(礼)

 

 


院長の四・五十肩の話!

日本全国に冬の嵐が吹きつけているようですね!超低気圧が北に居座り寒気が入り込み!そして猛吹雪。

 

このような冷え込みの強い日などは所謂!四・五十肩と言われる疾患である「肩関節周囲炎」を患っておられる方は、夜間痛などの『アノ何ともいえない疼きや激しい痛み』で、さぞかし苦しんでおられるのではないかと拝察いたします。

 

たくさんの医療機関を受診され!この言い方の判断はおまかせしますが「藁をも縋る思い」で良いと聞く度に幾つもの医療機関に足を運ばれていらっしゃったのではないでしょうか!?

 

僕が治療した患者さんで、一番長くお悩みだった方は何と!6年間という例がありました。骨折され固定する期間が長かったという事と、荒療治による!という要因も否定出来ないものでした。

 

40~60代!特に50歳を前後する方々に多く発症し、男女の差なく、右利きであれば左肩からが多く(当院のデータによる)何の誘因もなく徐々に、時には怪我(骨折、脱臼、捻挫、その他)がきっかけとなってやや急激に発症します。

 

院長である僕自身も47歳で経験しましたが、職業上是幸いと悪化させるだけさせてからの治療開始でしたので、今!つらい痛みに必死に耐えておられる方々にはお役に立てると存じます。

 

一日も早く『アノ痛み』から解放され!熟睡出来るように!僕的に良かった情報を紹介していきますのでよろしくお願いします。

すみませんが、次回に続きます。拝、

 

 

 

 


僕がウイスキーが好きなわけ。

毎夜、録画したNHK朝ドラを見て楽しんでいます。『マッサン』は、

日本のウヰスキーの父!と呼ばれた竹鶴政孝とスコットランド出身の妻

リタ夫婦をモデルにしています。

 

北日本新聞発行のまんまる1月号通巻128号より一部引用致します。

 

(一部引用転載開始)

 

  運命のスコットランド留学

広島県の酒造業の家に生まれた竹鶴政孝は学生時代から洋酒に興味を持ち、大阪の摂津酒造に入社した。やがて社長に認められ、大正

7年(1918)24歳でスコットランドに留学。グラスゴー大学に学び、蒸溜所で実地研修をして本場のウイスキー製法を体得していく。あるとき柔道の指導を頼まれ、訪ねた家で運命的にリタと出会う。リタは政孝の魅力にふれ、抱く夢を一緒に叶えたいと共に生きることを選び、周囲の反対を押し切って結婚。政孝は新妻と大正

9年(1920)に帰国。第一次大戦後の不況の中、摂津酒造はウイスキー製造を断念。政孝は辞表を出し、しばらく浪人生活を送った。その後、別の酒造会社に籍を置きウイスキー製造に貢献した。そしてついに独立し、自身が理想とするウイスキーづくりという夢を叶えるため北へ旅立った。

 

  夢を追い北海道余市町へ

北海道積丹半島の付け根、余市町。寒冷で適度な湿度があり、良質な水、ピート(泥炭)も豊富なその地で、政孝は昭和9年(1934)「大日本果汁株式会社」を設立。リンゴジュースなどを製造しながら、熟成に時間がかかるウイスキーの原酒をつくり続けた。そして昭和15年(1940)ついに第一号ウイスキーが誕生し「大日本果汁」を略して「ニッカ(日果)ウヰスキー」と命名した。終戦後の昭和24年(1949)に種類は自由販売となり、市場は模造ウイスキーで賑わった。しかし政孝は品質第一の姿勢を貫き、社員は強く結束して原酒を守りぬいた。

 

  受け継がれる品質主義

夫を「マッサン」と呼び、日本料理の名人にまでなったリタ。日本人よりも日本人らしく夫を支え、昭和36年(1961)64歳でこの世を去る。リタを失った政孝は貯蔵庫でテイスティングに没頭し、翌年選りすぐりの余市蒸溜所の原酒をブレンドした「スーパーニッカ」続いて「ハイニッカ」を発売。どちらも好評を得て「ニッカ」は全国ブランドへと成長していく。余市蒸溜所では今も石炭による直火蒸溜を行なっている。ウイスキーづくりの原点と、品質第一主義を受け継いで歩み続けるニッカ。晩年、政孝は病床でも水割りを飲み、まさに最後までウイスキーと生き、昭和54年(1979)85歳の生涯を閉じた。今は最愛の妻とともに余市蒸溜所を望む墓地に眠る。

 

(一部引用転載終了)

 

日本人より日本人らしいエリーことリタさんが亡くなって53年が経過しているのですね!?僕が生まれたのが昭和36年(1961)ですから暗算より容易いですね。それにマッサンと同じく柔道をしていたということ。^^

 

僕がウイスキーを好むのもマッサンとリタさんの意思を継いでいるのかもしれない・・・・!?「うん!きっとそうだ。そうに違いない」

 

「そんなわけないでしょ!」^^

 

  


ハッ!としたこと!

先日!従兄の嫁さんと話をした時に

「自分の携帯電話番号言える?」と聞かれ、妻共々「言えないっ!」とふたり一緒に叫んでしまいました。

 

長く使っている番号のはずが!?まったく覚えていないというこの現実!「携帯さえ、スマホさえ持っていれば記録してあるから大丈夫」とばかりに覚えようともせずに今日までのほほんと・・・。

 

何かあった時に!緊急時などで連絡をしたいのに携帯がない!電源が切れている!携帯の普及で台数こそ激減しましたが、公衆電話や人様にお願いして連絡をとるしかありません。

 

せめて自分や家族の携帯電話の番号を記憶しなければ!連絡が遅れるだけつらいものがあります。

 

「いやあ本当だなあ!?これはしっかりとしておかなければなあ」と従兄の嫁さんと話をして『ハッ!』としたことでした。

気をつけよう!じゃあなく記憶しよう。と思いました。^^


ひさしぶり~っ!

今日のお昼休みに!空を見上げて「ひさしぶり~っ!」と声をあげてしまいました。^^

 

寒気という名の将軍様が日本海側にいらしていた為に、鉛色の空と灰色の雪!(鉛色の空から降る雪は白く見えないから)少し、言い訳!

衆議院選挙も終わり、ちょっと一服!という方もようやく骨休めがお出来になるのではないでしょうか!?本当にご苦労様でした。

 

長きにわたり、低気圧によって上から押さえつけられていたので!今日の晴れ間は開放感をもたらしてくれました。敏感な方であれば「その通りっ!」とお分かりの事と思います。

 

つかの間ではありましたが、青い空と白い雲を目にしただけで何故か、こころにあった鉛色のものがスーッ!と雲散霧消したような気がして「ふ~っ」と大きく息を吐くのでした。^^

 

 


討ち入り当日!

城明け渡しより、長きにわたり秘めた思いを胸に愈々!今夜決行です。失敗は許されません!

 

左上の写真は、小屋に潜む吉良上野介を引きずり出し取り囲み、そしてご生涯を迫る一枚です。ここでも上野介は有るまじき行動に出て内蔵助の「卑怯!」という言葉と共に、ご主君最後の短刀にて胸を突かれ絶命します。まさか!こんなことになるとは思ってもいなかっただろうと思いますが、すべて自分自身が引き起こしたことであり自業自得!因果応報!と上野介も認めたことでありましょう。

 

映画では脚色されている場合が多く、討ち入りの装束も火消のいでたちが数名とあとはバラバラであったらしく、山鹿流の陣太鼓も実はドラであったのかもしれない!と聞いています。

 

しかし、赤穂事件は作り話ではなく事実あったものです。浅野長矩の他にも御馳走役をいじめていたという記録も残っています。師走に入り一年を振り返り!ひと様に気に障る言動がなかったか!?卑怯な振る舞いはなかったか!?立ち居振る舞いをもう一度厳しく見直すことの出来るように!『年末にかけての放送を復活させてほしい』と、討ち入りそばを食べ乍ら思っている次第です。拝、

 

 

 


討ち入り前日!

今日は討ち入り前日です。47名はどのような思いで過ごしたのだろうか?大石主税などはまだ16歳、矢頭衛門七18歳である。

 

「武士たる者は正にそういうものなのである」と二人の若者に一喝される53歳の今の僕がここに居るのでした。左上の写真から聞こえてくるのは!?「鬼さんこちら♪手の鳴る方へ♫」京都山科に住まいを移した大石内蔵助が、敵を欺く為に目立ち過ぎるくらいに遊ぶ姿を見せつけている一枚です。

 

それだけに止まらず大切な家族を守る為に、母様をはじめ奥様までも欺こうとする姿に涙が溢れ、胸の奥そこが痛みそして響きます。

自分自身に当てはめて見てみても果して出来るだろうか!?

 

大石内蔵助の同士の方々に対する立ち居振る舞いと思いやりのあまりにもの大きさに、日本人の真髄を見たような気がします。(礼)

 

愈々!明日討ち入りです。